ETV特集「細野晴臣 音楽の軌跡〜ミュージシャンが向き合った"3.11"」書き起こし

ETV特集放送後すぐに書き起こしたかったのですが、出遅れましてすみません。
気になった発言や流れをピックアップしてあります。震災の話と細野さんの音楽史を分けるために一部再構成しています。語尾のニュアンスや少々の間違いがあるかもしれませんが、華麗にスルーしてください。

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細野さんと震災
2011.4.10震災後初めてステージに立つ。ライブハウスでチャップリンの"Smile"を演奏
地震当日のことに触れる

細野氏「とにかく(地震から)1ヶ月もたっちゃったんだなと思うんですけど、地震の日以来僕は音楽に全然触れてなくて。今日が初めてかな。僕は外にいたんです。今日も入ってるんですけど、ETVのカメラが回ってて原田知世さんと一緒に白金の自然教育公園というところにいて、ちょうどそこに入ろうという寸前でしたね。」


ナレーションの原田知世さんと一緒にロケ中、地震に遭遇。「みんな大丈夫かなあ」と言いながらさほど慌てた様子のない細野さん。


震災後、ミュージシャンは生き方を問われていると感じている細野さん。

細野氏「音楽家はどうやって暮らしてゆけばいいんだろうって、ずっと考え続けるというか、基本的な生き方を決めなきゃいけない。そこまで考えてますね。」

再びライブハウスのシーン。照明を極力抑え、楽器もアコースティックなものに。
ステージ上で震災のことに触れ、「どうですか?」とステージ上のコシミハルさんに質問を振る。

コシミハル氏「なんかね。音楽やっててなんの疑いもなかったんですよ。あれ?って。初めてですね。地震で。なんかね、すごいむなしくなっちゃたんですよ」

5月9日、くるり岸田繁さんとカフェで対談。

奇跡

奇跡

岸田氏「震災をニュースで見て(中略)ぼくも音楽聴けなくなって、やれなくなって、いろんなこと考えて、1ヶ月が過ぎていきました」
細野氏「2月にマスタリングが完成してて4月20日にCDが出ることが決まってて。その間にこういうことがあって。出るのが延期になるのかなと思ったらなんないわけでね。こんな時に出るんだという戸惑いがすごくあってね。考えちゃうわけだよ。(岸田さんと)同じようにね。自分の音楽やってる意味とか無力感とかね。出てみんなが聴くときの怖さと言ったらないねそういうのはね。自分のまんまが出ちゃうっていう感じがしてたんで」

ここから証言を交えながら、細野さんの音楽の歴史について振り返る。
日本語のロック、ニューミュージック、テクノ、エレクトロニカワールドミュージックアンビエント、Hosonova…


ロックのサウンドに初めてオリジナルの日本語詞を乗せ、音楽シーンに衝撃を与えた"はっぴいえんど"について

松本隆氏「発明に近いですよね。その感覚って」

細野さんがユーミンとともに作り上げたサウンドは"ニューミュージック"という新しいサウンドを生み出す。

松任谷由実氏「(それまでに)全くない音楽だったと思います。」

YMO。誰も聞いたことがなかったテクノポップ。コンピュータを駆使し世界に進出。

イエロー・マジック・オーケストラ(US版)

イエロー・マジック・オーケストラ(US版)

高橋幸宏氏「音楽に対してはとにかくやりたいことのために、まい進してた」
坂本龍一氏「日本のポップ、ロック、あるいは歌謡曲やそういう大衆音楽全体を含めて、2段も3段も底上げをした人間の1人」


終戦の2年後に生まれた細野さんは自分と音楽を見つめ直している。

細野氏「原点はやっぱり戦後…。敗戦ってことかな。そういう中から生まれてきたものなので。僕もそうだし(僕の)音楽もそうですよね」

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細野さんの歴史
ここから細野さんの来歴を詳しく。
アメリカのカントリー、ポップス、ロックにのめり込んだ細野少年。

「もう何も考えずにアメリカの音楽に没頭してましたね。ネガティブに言えば植え付けられたものだし、でもそれはすごくすばらしいものだし面白かったから吸収したわけでね。嫌だったら嫌だって拒否しますから。自分の中に血になり肉になりっていうか、こう、おいしい果物を食べたようなね。毒かもしれないけどおいしい果実を食べたような」

1969年、立教大学を卒業後"エイプリル・フール"でプロデビュー。アメリカの最先端を意識したサウンド。歌詞も英語。しかしたった1年で解散。

「(アメリカンロックを)聴けば聴くほど、彼らのルーツを大事にしている姿に影響されて、自分たちもルーツを引っ張り出してこないと同じようにいいものができないんだと。っていうことを教えられて"はっぴいえんど"でやりだした」


1970年、"はっぴいえんど"結成

風街ろまん

風街ろまん

文学青年だったドラマーの松本隆さんに日本語で作詞をさせた。

松本氏「お正月こたつカルタみたいな、それまでの長髪でヒッピーみたいな人たちからしたら目が点になるような詞を書いた。これが日本語のロックって言ったもの。おかしいとか変だとか笑われたんだけども」

"はっぴいえんど"の音楽はその後の日本のロックシーンに決定的な影響を与える。しかし、当時は大衆な大ヒットに結びつかず、わずか3年で解散。

「聴く人に言わせると、『言葉はわかるんだけど音楽はねえって』言われて。そうか音楽は通じないのかと思って。で、最後のラストアルバムでアメリカに行ったときに、『音楽はわかる。でも言葉はわからない』って言われて。あ、僕たち居る場所がないなと。実験的なプロジェクトが一つ終わったみたいな。そういうことだったんじゃないかな」


画面は再び岸田繁さんとの対談に移る。

岸田氏「細野さんとアメリカの音楽の絶対的な壁みたいなもんとどう向き合ってはんのかなって…」
細野氏「当時は聴くもんていうと日本のものか、そういうアメリカで作られた音楽か。で、子供だからどうしても面白いほうに行っちゃうから、自分で聴いてたのがそういうブギウギだったりね、映画音楽だったり。で、それを聴いてきて自分で困っちゃったなっていうのがずっと続いていて、"はっぴいえんど"から。ブルースが好きだし、でもブルースって言葉のなんかこう韻でできてるようなところがあるから。日本語で歌わなきゃと思うと乗れないからね(笑)。それを日本語で置き換えるとブルースって意味がもうないなと。そうすっと日本の独自の音楽にならざるを得ないだろうし。つまりなんか作るたんびにいつもこうアメリカとの折り合いをつけながらやってきたのね今まで。でも、もういいか、と今は思ってて。これから先のアメリカを見てるわけじゃないし。そういう意味ではアメリカの幻みたいなものを僕は、ずっとこう、幻にさいなまれているというか。楽しい幻想だけれど。そういう体験が世代が違うってことだろうから、希薄だってことだろうからね岸田君が」


26歳で初めてのソロアルバム「HOSONO HOUSE」をリリース。

HOSONO HOUSE

HOSONO HOUSE

雇われのスタジオミュージシャンをやって生計を立てる日々が続くなか、天才少女荒井由実に出会う。ユーミンのデビューを支えたのが細野氏率いる演奏家集団キャラメル・ママ(後のティン・パン・アレー)。アレンジを依頼された細野さんは演奏技術を尽くして当時の最先端、シティポップスを生み出す。

ひこうき雲

ひこうき雲

松任谷由実氏「全くない音楽だったと思います。私の作品や声ってだけじゃなくって、本当にサウンドによるところが大きかったですね。一緒にセッションしていた時も、ベースをされてるっていうより、全部ラインを作曲されていたような。細野さんの人間性につながるのかもしれないけど、独特の浮遊感があると思います」


70年代後半、細野さんはロックともニューミュージックとも違う音楽をやり出す。

トロピカルダンディー(紙ジャケット仕様)

トロピカルダンディー(紙ジャケット仕様)

泰安洋行(紙ジャケット仕様)

泰安洋行(紙ジャケット仕様)

はらいそ

はらいそ

「流行している音楽からさよならしたんですよ、一度ね、そこで。クリエイトしていくって言う意味でのミュージシャンと(楽器の)プレイヤーっていうのは、やっぱり違いますから」

しかし、当時主流だったニューミュージックにくらべ、注目を集めることはなかった。

「なかなか認知されない音楽をやってきたんで、スタッフのみんなもやきもきしてるような感じも伝わってきてね。いつまでたっても日の目を見ないみたいな、そういう時に(当時のレコード会社社長)村井さんから頼まれて、何かやってくれないかと」


そしてYMO結成へ。細野さんが追いかけてきたエキゾチックサウンドをコンピュータと組み合わせる。その衝動は全く新しいテクノポップを生み出す。

「同じことの繰り返しほどあほらしいことはないし、やはりそこに発見とかクリエイティビティが常に新しく芽生えてないと衝動が出てこない」

メンバーは細野さんについて

高橋幸宏氏「やっぱ細野さんは新しいことにすごいアンテナがとんがってる人だったんで、そこに教授みたいな電子ミュージックというか、当時のね現代音楽も含めてそういう音楽のパイオニア。それから僕みたいなポップミュージック好きみたいな3人がこう集まったのは細野さんの嗅覚だったんじゃないかなという気もしますけどね」
坂本龍一氏「雲の上の存在でね。たまに何度か演奏したことありますけど、なんかもうこっちも緊張しちゃってね。というような存在でしたね。一応ジャンル分けすると、クラシック音楽でもないし現代音楽でもないしジャズでもないし、日本のロックかポップスというようなカテゴリに入るんですけど、その中でいて僕が勉強してきたような近代音楽とか現代音楽とかそういうものをこの人は知ってるんじゃないかなと」

YMOの人気は頂点へ。80年代、テクノポップは時代の音に。
そして歌謡曲の作曲家としてオファーが殺到する。松田聖子中森明菜、いも欽トリオといったトップアイドルたちに音楽を提供。
新しい音楽を作りたいという細野さんの衝動は、ついにたくさんの人の心をとらえる。


しかし、1983年12月、YMOは散開。5年間の活動にピリオドを打つ。

「疲れ果てて。芸能人のような感じになっちゃいましたから。音楽にとどまらなかったわけですよね、カルチャーとして捉えられてたから。何かのキャラクターになってしまったわけで、やりたいことが制約されてきた。というのは"RYDEEN"のような曲をまた作ってくれと言われることが出てきて。同じことは二度できないんです。みんな繰り返しはできない、商売じゃない。そこらへんが割と青二才というかね、音楽ばっかりのこと考えてたんで。それで嫌になっちゃったんですよ」


コーネリアス小山田圭吾さんとの対談の中で

「"はっぴいえんど"もね、たかだか数年やっただけで解散してもう忘れちゃうわけだよ。次自分のアルバムどうしようかとかね。何十年か経ったら追っかけてくるでしょ。『えっ』と思ったんだよ最初の頃、"はっぴいえんど"が追っかけてきたよ、と。"YMO"も解散したはずなの。でも十何年か後に再結成みたいなアルバム作って、そこでやっと終わったと思ったの。そしたら、今もやってる(笑)なんで(笑)なんでなんだろう。追っかけてくるというか、やったことが消えない。だからこそ(昔のことを)あんまり考えたくないという」


40歳を前に世の中から距離を置き始める。商業主義の音楽に疑問を感じ始めていた。

「バブルな感じがすごく違和感があったりして。要するに土地を売ったり買ったり転がして儲けるという人たちにすごく僕は違和感を感じていて」

中沢新一氏と聖地巡礼の旅に出る。


スピリチュアルな旅の中でもう一度心の奥を見つめ直した細野さんに新しい音楽への衝動が生まれる。たどりついたのはそれまでと全く違う音楽、アンビエント

アンビエントとは環境音楽なんて言われてましたけど、本当は内面の環境なんですね。僕の感覚では海の上をこうラッコのように(上を見上げながら)こうやって、漂ってる感じですね。そういう時の響き。脳内の響き、心の響きっていうか。だから他のことは全部陸地の騒ぎに聞こえてるんですよ。遠い陸地でなんか騒いでるっていう。関係ねえなと」

一人スタジオにこもり、新しい音の響きに没入していく。しかしその頃、世界中で同時多発的に同じ思いでアンビエント音楽を作る人々が存在していた

「ドイツ、イギリス、アイスランドオーストリア、あそこらへんが多かったですね。だから名もない人たちだけどすばらしい音楽がいっぱいあったんです。要するに、消費される音楽じゃないんです。コミュニケーションなんですよね、世界との。だから、アンビエントの時代に経験したのは、音楽は商品というよりも、心の伝達手段なんだと。心っていうか、その個性ですよね。センスとか世界観とか。だから、自分はこういうものですって名刺を出すんじゃなくて、一人ひとり音楽を聞かせてくださいということなんですね」


21世紀に入って、細野さんはYMOのメンバーと再び活動を始めた。

坂本氏「昔のYMOやっている頃は『テクノ』なんだ、『テクノポップ』なんだとかね、自分たちが一番進んでるんだとかね。それからそれまで培ってきたいろんなスタイルとかテクニックとかいうものをいったん捨てて、全く新しい音楽をやるんだというような気負いっていうのかな、そういうのとても強かったわけですよね当然ね。それだから前に進めたわけですけども。だから別に今はなんも『テクノ』である必要もないし、『何々』という看板がもうが全部なくなってるので、肩の力が抜けてるので、持ってるもの全部引き出しを出せる状態」

「なんか一回りするんだという実感があったことはあったんですよ。だから人生は一直線じゃなくて螺旋を描いて回ってるんだと。同じところにいるようで上から見ると同じだけど、横から見ると螺旋なんで違うところにいるんですけど、二次元的に見ると同じところにいたりする」

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新しいアルバムについて

再び小山田さんとの対談へ

「たとえばカバーやってるんだけどなぞってるわけじゃなくて、知らない音楽を自分の感覚に取り入れたいっていうね。なんかこう、自分ではわからない音楽っていうのがあるわけだから、それをどうやったらできるようになるんだろうっていうことが面白いんだよね。だから同じことをやれっていうのが一番むずかしいし、できない。」

Music

Music

細野氏「やることはいっぱいあるでしょ?やりたいこと」
小山田氏「う〜ん。まあありますけどね、うん」
細野氏「僕もねいっぱいあったの。小山田君の年齢の頃から最近までは。でもやりたいことの一割ぐらいしかできないんだよね。いっぱいあったのやりたいことが。でも自分でできることって、その中の一割、もうちょっとあるかな三割。三割三分三厘くらい」
小山田氏「(笑)」
細野氏「だからまだ時間があるから、どんどんやってほしいなと思うけども。遅いよ、ソロ(笑)」
小山田氏「はい(笑)。はっはっはっ(笑)」
細野氏「人のこといえないけどさ」

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震災後初のライブ

インタビュアー「細野さんこの1ヶ月くらいどんなこと考えてました?」
細野氏「いやもう、日本地図広げてどこに原発があるかとかね。そんなことばっかりですよ毎日」
インタビュアー「恐怖っていうのは?」
細野氏「恐怖っていうかもう、ちゃんと自衛していかないと生きていけないんじゃないのと思ってね、この国で。そのくらい切羽詰まって。というのは、まだ終わってないから。だからずっと考え続けるっていうか、基本的な生き方を決めなきゃいけないっていう…。そこまで考えてますね」
インタビュアー「それは音楽家としての細野さんみたいなところ…」
細野氏「まあ、そうですね。うん。音楽家はどうやって暮らしていけばいいんだろうっていうね」

すべてが変わってしまった。その戸惑いを細野さんは客席に語りかける。

「今もちょっと思考停止状態。自分も含めて。だって、いい天気で街歩くと、夢だったのかなって思っちゃうでしょ?うーん、でもね、やっぱりね、忘れられないね、揺れは。何かこう傷を負ってるっていうかね。で、忘れない方がいいと思うんで、これからの行動に結びついてくるんで。何がどうなるかわかんないですけど、いろんな行動の変化がたぶんみんなにも訪れると思う。それがいい方向に行くように、とにかく祈るしかないっていう、今。」


「今日は"ラッキースター"やめて"Smile"で終わろう」と"Smile"を演奏。

「見ている人も、参加したミュージシャンも、みんなこういうこと前からやりたかったっていう声があって。東京の街も暗くなって、僕もこういう中で、ともし火というものがいかに心が温まるかっていう。音楽も、ともし火だとしたらそうでありたいなっていう。それがあってだんだん音楽に戻っていった」


再び岸田繁さんとの対談

岸田氏「震災以降っていう言い方って、便利やからそういう言い方してしまうけれども。幸福というのは何なのかみたいなテーマがあったら、それは結構当たり前のことやなあという風に気づき始めてる人も多いなあと思って。僕もそうで」
細野氏「僕もそうだね。なんか普通のことをこれほど意識した時期はないね」
岸田氏「うんうん」
細野氏「普通でいたいということとか。あ、でもそれは今回っていうか、だんだんわかってきたことは、その一番僕が好きな時間っていうのは、自分の部屋で汚いソファーに座ってね、汚いギター持って、それでつまびいて曲作ってる時がいちばんっっっっの幸せなのよね」
岸田氏「(うなずく)」
細野氏「それをなくさないようにレコーディングしてたの。いつもね忘れがちなんだよね、最初の気持ちを」
岸田氏「そうです、うん、僕もそうです」
細野氏「うまく表現しようっていうことにとらわれすぎちゃうとかね。そういうことが多かったから」
岸田氏「なんか、誰かが『そのまんま』っていうのが…いいなあっていう風に最近思って」
細野氏「うん。そう、そのまんまがいいよ。だから、無理しないほうがいいんだよ」
岸田氏「そう、無理しないほうがね」
細野氏「それが僕のこれからのテーマだね」
岸田氏細野氏「うんうんうん」
細野氏「だから、下手でも朴訥でもいいからそのことを大事にしたいなと思って」

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アルバムリリース後

HoSoNoVa

HoSoNoVa

細野氏「こういう時期に出るということの重荷のほうが強かったよね。でもこの時期に聞けて良かったっていう人が何人かいるんで、ほっとしているっていう」
インタビュアー「音楽の細野さんの創作意欲っていうか、また作りたいみたいな気持ちにはなっていらっしゃる…」
細野氏「うん、今までやったことない表現ができそうだなっていう予感があるんですよ。だから自分の中の何かをなぞるんじゃなくて、これなんだろうなっていう音楽がね、なんかこう出来そうなわくわく感っていうのが今、徐々にですけど。まあ、だからこれからもやっぱりずっと作り続けるだろうなっていう感じはありますけどね」


(了)